水郷柳河

北原白秋・水郷柳河の現代語版

南関

私の第二の故郷は肥後の南関であった。難関は柳河より東五里、筑後との境の物静かな山中の小市街である。その街の近郊外目(ほかめ)の山あいにあたかも小さな城のようないつも夕焼けの反照をうけて、たまたま旧道をゆく人の驚いて仰ぎ見るところとなった天…

沖ノ端(三)

庭にはむろんザボンの老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てて十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿って悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠(おけなわ)を長閑に槌を鳴らし、赤…

沖ノ端(二)

沖ノ端の写真を見る人は柳、栴檀(せんだん)、石榴(ざくろ)、櫨などのかげに、しかも街の真中を人工的水路の、水もひたひたと白く光っては芍薬の根を洗う洗濯女の手に波紋を描く夏の真昼の光景に一種のある異国的情緒が微かに漂うのを感じるであろう。あ…

沖ノ端(一)

柳河を南に約半里ほど隔てて六騎(ろっきゅ)の町沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫のあだ名であって、昔平家没落の砌(みぎり)に打ち洩らされた六騎がここへ落ちてきて初めて漁(すなど)りに従事したという、そしてその子孫が代々その業を受け継…

水郷柳河(六)

要するに柳河は廃市である。とある町の辻に古くから立っている円筒状の黒い広告塔に、折々、西洋奇術の貼り札が紅いへらへら踊りの怪しい景気をつけるほかには、よし今のように、アセチリンガスを点け、新たに電燈をひいてみたところで、格別、これはという…

水郷柳河(五)

九月に入って登記所の庭に黄色い鶏頭の花が咲くようになっても、まだコレラは止む気色もない。若い町の弁護士が忙しそうに粗末なガラス戸を出入りし、蒼白い薬種屋の娘の乱行の漸く人のうわさに上るようになれば、秋はもう青い渋柿を搗く酒屋の杵の音にも新…

水郷柳河(四)

日光の直射を恐れて羽蟻は飛びめぐり、掘割には水涸れて悪臭を放ち、病犬は朝鮮薊の紫の刺に後退りつつ咆え廻り、蛙は青白い腹を仰向けて死に、泥臭い鮒のあたまは苦しそうに泡を立てはじめる。七八月の炎熱はこうして平原のいたるところの街々に激しい流行…

水郷柳河(三)

とはいえ大麦の花が咲き、からの花も実となる晩春の名残惜しさは、青臭い芥子(けし)の花房や新しい蚕豆(そらまめ)の香りにいつしかとまたまぎれてゆく。 まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取り付け始めた大きな三神丸の一部をふと学校帰りに発見…

水郷柳河(二)

折々の季節につれて四辺の風物も変わる。短い冬の間にも見る影もなく汚れ果てた田や畑に、刈株だけが鋤き返されたまま色もなく乾き尽し、羽に白い斑紋を持った怪しげな高麗烏のみが廃れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、そうして青い股引をつけた櫨(はじ)の実採り…

水郷柳河(一)

私の郷里柳川は水郷である。そうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ掘割の匂いには日に日に廃れていく古い封建時代の白壁が今なお懐かしい影を映す。肥後路より、あるいは久留米路より、ある…