水郷柳河

北原白秋・水郷柳河の現代語版

水郷柳河(六)

 要するに柳河は廃市である。とある町の辻に古くから立っている円筒状の黒い広告塔に、折々、西洋奇術の貼り札が紅いへらへら踊りの怪しい景気をつけるほかには、よし今のように、アセチリンガスを点け、新たに電燈をひいてみたところで、格別、これはという変化も全ての沈滞から美しい手品を見せるように容易く蘇らせることは不可能であろう。ただ偶々(たまたま)に東京帰りの若い歯科医がその窓の障子に気まぐれな赤い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊(あざみ)の咲いた古い旅籠屋にはほんの商用向けの旅人がほとんど泊まった気配も見せないで立ってしまう。ただ何時通っても白痴人の久たんは青い手拭をかぶったまま同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕(なお)す禿げ頭は硝子戸の中に俯いたぎりチックタックと音をつまみ、本屋の主人(あるじ)は蒼白い顔をして空をただ見つめている。こういう何の物音もなく眠った街に、住む人は因循で、ただおとなしく僅かにGonshan(良家の娘)のあの情の深そうな、そして流暢な軟らかみのある語韻の九州には珍しいほど京都風なのに阿蘭陀訛りの熔けこんだ夕暮れのささやきばかりがなつかしい。風俗の淫らなのにひきかえて遊女屋のひとつも残らず廃れたのは哀れふかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間体を恐る恐る-利発な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至ったのだろう。今もなお黒いダリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は昼もっこえて水は昔のように流れてゆく。