水郷柳河

北原白秋・水郷柳河の現代語版

沖ノ端(三)

 庭にはむろんザボンの老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てて十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿って悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠(おけなわ)を長閑に槌を鳴らし、赤裸々の酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り回り、そうして町の水路から樋をくぐってくるかの小さい流れは隠居屋の涼み台の下を流れ、泉水に分かれ注ぎ、酒樋を洗い真白なコメを流す水となり、同じ屋敷内の瀦水(たまりみず)に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かにふるわせ、然るのち、ちゆうまえんだの菜園をひとめぐりして貧しい六騎の厨裏に濁った澱みをつくるのであった。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だという深い竹藪であったのを、私の七八歳のころ、父が他から買い求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子(こうじ)を植え、西洋草花を培養した。それでもなお昼は赤い鬼百合の咲く畑には夜は幽霊の生じろい火が燃えた。

 世間ではこの旧家を屋号通りに「油屋」と呼び、あるいは「古問屋」と称えた。実際私の生家はこの六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石数高く魚類の問屋としては九州地方の老舗として夙に知られていたのだる。従って浜に出ると平戸、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無塩、塩魚、鯨、南瓜、西瓜、たまには鵞鳥(ガチョウ)、七面鳥の類まで積んできて、絶えず取引していたものだった。そうして魚市場の閑な折々は、血のついたなまぐさい石畳の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を真っ赤に開けては、激しい夕焼の中で、よく大きな雁首の煙管を管いっぱいに呑んで見せたものである。

 私はこういう雰囲気の中でいつもかなり贅沢な気分のもとに所謂油屋のTonkajohnとして安らかに生い立ったのである。