水郷柳河

北原白秋・水郷柳河の現代語版

南関

 私の第二の故郷は肥後の南関であった。難関は柳河より東五里、筑後との境の物静かな山中の小市街である。その街の近郊外目(ほかめ)の山あいにあたかも小さな城のようないつも夕焼けの反照をうけて、たまたま旧道をゆく人の驚いて仰ぎ見るところとなった天守造りの真っ白な三層楼があった。それが母の生まれた家であって、数代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であった。

 私もまたこの小さな国の老侯のように敬われ、かしずかれて、慕われて、余生を読書三昧に耽(ふけ)った外祖業隆(なりたか)翁の真っ白な長い髭の家で生まれて-明治十八年一月二十五日-然るのち古めかしい黒塗りの駕籠に乗って、まだ若い母上と柳河に帰った。

 私は生まれて極めて虚弱な子供であった。そうして癇癪の強い、おhんの僅かな外気にあたるか、冷たい指先に触られても、すぐ四十度近くの高熱をよび起した程、危険極まれる子供であった。石井家では私を柳河の「ガラス瓶」とあだ名したくらい、ほとんど壊れ物に触るような心持で恐れて誰もよく抱けなかったそうである。それであちらとこちらを行き来するにしても人力車でなく、わざわざ古めかしい女駕籠を仕立てたほどオランダの舶来品扱いにされた。それでもある時などは着いてすぐ玄関にかつぎ据えた駕籠の、扉をあけて手から手へ渡されたばかりでもう蒼くなってひきつけてしまったそうである。

 三歳の時、私は激しいチフスにかかった。そうしてサボンの花の白く散るかげから通っていく葬列を見て私は初めて乳母の死を知った。彼女は私の熱のあまりに高かったため何時しか病を伝染されて、私の身代わりに死んだのである。私の彼女における、記憶は別にこれというものもない。ただ母上のふところから伸びあがって白い柩を眺めた時その時が初めのまた終わりであった。

 家に来た乳母はおいそといった。私はよく彼女と外目の母の家に行っては何時も長々と滞留した。そうして迎えの人力車がその銀の輪をキラキラさせて遥かの山すその岡の赤い曼殊沙華のかげから寝ころんで見た小さな視界のひとすじ道を懐かしそうに音をたてて軋(きし)ってくるまで、私たちは山にゆき谷にゆき、そうしてただ夢のように何ものかを探し回って、もう慣れっこになって珍しくもない自分たちの潟くさい海のほうへ帰ろうとは思わなかった。

 こういう次第で私は小さい時から山のにおいに親しむことができた。私はその山の中で初めて松脂の匂いを嗅ぎ、いもりの赤い腹を知った。そうして玉虫と斑猫と毒茸と・・・いろいろの草木、昆虫、禽獣から放散する特殊な香りを全て驚異の触感をもって嗅いでまわった。かかる場合に私の五感はいかにも新しい喜悦に震えたであろう。それはちょうど薄い布に冷たいアルコールを浸して身体の一部を拭いたあとのように山の空気は常に爽やかな幼年時代の感覚を刺激せずにはおかなかった。

 南関の春祭はまた六騎の街に育ったロマンチックな幼児をして山に対する好奇心を煽(おだ)てるに十分であった。私は祭物見の前後にふるえながらどんぐりの実のお池の水に落ちる音をきき、それから若い叔母の乳くびを何となく手で触った。

 

沖ノ端(三)

 庭にはむろんザボンの老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てて十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿って悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠(おけなわ)を長閑に槌を鳴らし、赤裸々の酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り回り、そうして町の水路から樋をくぐってくるかの小さい流れは隠居屋の涼み台の下を流れ、泉水に分かれ注ぎ、酒樋を洗い真白なコメを流す水となり、同じ屋敷内の瀦水(たまりみず)に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かにふるわせ、然るのち、ちゆうまえんだの菜園をひとめぐりして貧しい六騎の厨裏に濁った澱みをつくるのであった。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だという深い竹藪であったのを、私の七八歳のころ、父が他から買い求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子(こうじ)を植え、西洋草花を培養した。それでもなお昼は赤い鬼百合の咲く畑には夜は幽霊の生じろい火が燃えた。

 世間ではこの旧家を屋号通りに「油屋」と呼び、あるいは「古問屋」と称えた。実際私の生家はこの六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石数高く魚類の問屋としては九州地方の老舗として夙に知られていたのだる。従って浜に出ると平戸、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無塩、塩魚、鯨、南瓜、西瓜、たまには鵞鳥(ガチョウ)、七面鳥の類まで積んできて、絶えず取引していたものだった。そうして魚市場の閑な折々は、血のついたなまぐさい石畳の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を真っ赤に開けては、激しい夕焼の中で、よく大きな雁首の煙管を管いっぱいに呑んで見せたものである。

 私はこういう雰囲気の中でいつもかなり贅沢な気分のもとに所謂油屋のTonkajohnとして安らかに生い立ったのである。

 

沖ノ端(二)

 沖ノ端の写真を見る人は柳、栴檀(せんだん)、石榴(ざくろ)、櫨などのかげに、しかも街の真中を人工的水路の、水もひたひたと白く光っては芍薬の根を洗う洗濯女の手に波紋を描く夏の真昼の光景に一種のある異国的情緒が微かに漂うのを感じるであろう。あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、あるいは葡萄色の酒袋を香りの滴るばかり積み重ねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であって、高い酒倉は甍(いらか)の上部を現すのみ。こうして、私の母屋はこの水の右折して、ついに二条の大きな樋に極まり、渦を巻いて鹹川(しおかわ)に落ちてゆくその袂から、是に左となるところにある。

 今は銀行となったが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋のなまこ壁の隣に越太夫という義太夫の師匠がいつも気軽な肩肌ぬぎの婆さんと差し向って、大きな大きな提燈を張り替えながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、桜のちらしなどをよく書いていた藁葺きの小店と、それに相対して同じようななまこ壁の旧家が二つ並んでいる。いずれも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造った。その酒屋の、私はTonkaJohn(大きい坊ちゃん、弟と比較していう、オランダ訛りか)である。して、隣はやはり祖父時代に分かれた北原の分家で、後には醤油醸造を止めた。

 南町の私の家を差し覗く人は、薊やたんぽぽの生えた古い土蔵づくりの朽ちかかった 屋根の下に、渋い店格子をとおして、銘酒を満たした五つの朱塗りの樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであろう。そうしてその上の梁の一つに紺色の可憐な燕の雛が懐かしそうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いている日もあった。土間は広く、店いっぱいの薬種屋式のガラス戸棚には曇ったわさび色の紙が張ってあって、その中ほどの柱にオランダ渡の古い掛け時計が、まだ正確に、その扉の絵の、眼の青い、そして胸の白い女の横顔の上に、チクタクと秒刻の優しい歩みを続けていた。その戸棚を開けると、緑礬(りょくばん、硫酸塩鉱物の一種)、硝石、甘草、肉桂(にくけい、クスノキ科の常緑高木)、薄荷、どくだみの葉、中には売薬の版木等がしんみりとこんがらがった一種異様の臭を放つ。それはある漂流者がここに来て食客をしていた時分密かに町の人に薬を売っていたのが、亡くなったので、そのままにしてあるという、旧い話であろう。

 

沖ノ端(一)

 柳河を南に約半里ほど隔てて六騎(ろっきゅ)の町沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫のあだ名であって、昔平家没落の砌(みぎり)に打ち洩らされた六騎がここへ落ちてきて初めて漁(すなど)りに従事したという、そしてその子孫が代々その業を受け継ぎ、繁殖して今日の部落を為すに至ったのである。)つまるところは柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ全ての習俗もより多く南国的な、怠惰なしまりのない何となく投げやりなところがある。そうしての柳河のただうわべに取りすまして廃れた薄絹のかげに淫らな秘密を隠しているのに比べれば、すべてが露わで、げんきで、また華やかである。かの巡礼の行楽、コレラ避けの花火、さては古めかしい水祭りの行事などおおかたのこの街特殊のものであって、張りの強い言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎は暖かければ漁をし、風の吹く日は遊び、雨なら寝て、空腹になれば食い、酒を飲んでは月琴を弾き、夜はただ女を抱くという風である。こうして宗教を遊楽に結び付け、遊楽の中に微かに一味の哀感をつないでいる。観世音は永久(とこしえ)にうらわかい町の処女によって仕えられ(各町に一体づつの観世音を祭る、祭りの日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに使えるわかい娘たちは参詣の人にくろ豆を配り、或いは小屋をかけていろいろな催しをする。そうしてこの中の資格は処女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新しい年頃のものが代わって入る。)天火のふる祭りの晩の神前に幾つとなくかかげる牡丹に唐辛子の大提灯は、また若い六騎の逞しい日に焼けた腕でかかげられ、霜月親鸞上人の御正忌(命日)となれば七日七夜の法要に寺々の鐘が鳴りわたり、朝のお経に詣でるといっては、わかい男女が夜明け前の街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌参りましょうか・・・・の淫らな小歌に浮かれて逢引の楽しさを仏の前に祈るのである。

 

水郷柳河(六)

 要するに柳河は廃市である。とある町の辻に古くから立っている円筒状の黒い広告塔に、折々、西洋奇術の貼り札が紅いへらへら踊りの怪しい景気をつけるほかには、よし今のように、アセチリンガスを点け、新たに電燈をひいてみたところで、格別、これはという変化も全ての沈滞から美しい手品を見せるように容易く蘇らせることは不可能であろう。ただ偶々(たまたま)に東京帰りの若い歯科医がその窓の障子に気まぐれな赤い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊(あざみ)の咲いた古い旅籠屋にはほんの商用向けの旅人がほとんど泊まった気配も見せないで立ってしまう。ただ何時通っても白痴人の久たんは青い手拭をかぶったまま同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕(なお)す禿げ頭は硝子戸の中に俯いたぎりチックタックと音をつまみ、本屋の主人(あるじ)は蒼白い顔をして空をただ見つめている。こういう何の物音もなく眠った街に、住む人は因循で、ただおとなしく僅かにGonshan(良家の娘)のあの情の深そうな、そして流暢な軟らかみのある語韻の九州には珍しいほど京都風なのに阿蘭陀訛りの熔けこんだ夕暮れのささやきばかりがなつかしい。風俗の淫らなのにひきかえて遊女屋のひとつも残らず廃れたのは哀れふかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間体を恐る恐る-利発な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至ったのだろう。今もなお黒いダリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は昼もっこえて水は昔のように流れてゆく。

水郷柳河(五)

 九月に入って登記所の庭に黄色い鶏頭の花が咲くようになっても、まだコレラは止む気色もない。若い町の弁護士が忙しそうに粗末なガラス戸を出入りし、蒼白い薬種屋の娘の乱行の漸く人のうわさに上るようになれば、秋はもう青い渋柿を搗く酒屋の杵の音にも新しい匂いの爽やかさを忍ばせる。

 祇園会が終わり秋もふけて、線香を乾かす家、からし油を搾る店、パラビン蝋燭を造る娘、提燈の絵を描く義太夫の師匠、ひとり飴形屋の二階に取り残された旅役者の女房、すべてがしんみりした気分に物の哀れを思い知る十月の末には、まず秋祭りの準備として柳川のあらゆる掘割は、あらゆる市民の手によって、一旦水門の所を閉ざされ、水は干され、魚は掬われ、なまぐさい水草は取り除かれ、溝(どぶ)どろは綺麗にさらい尽くされる。この「水落ち」の楽しさは町の子供の何にも代え難い季節の華である。そうしてこのひと騒ぎの後から、またひさしぶりに清らかな水は廃市に注ぎ入り、楽しい祭の前触れが異様な道化の服装をして、ラッパを鳴らし拍子木を打ちつつ、明日の芝居の芸題を面白おかしく披露しながら町から町へと巡り歩く。

 祭りは町から町へ日を異にして準備される。そうして彼我の家庭を挙げて往来しては一夕の愉快なる団欒に美しい懇親の情を交わすのである。それだけでなく、知る人も知らぬ人も酔っては無礼の風俗おかしく、ザボンの実のかげに幼児と独楽を回し、戸ごとに酒をたずねては浮かれ歩く。祭りの後の寂しさはまた格別である。野は火のような櫨紅葉(はじもみじ)に百舌(もず)がただ鳴きしきるばか、何処からともなくさすらってきた傀儡師(くぐつまわし)の肩の上に、生白い華魁の首が、カックカックと眉を振る物凄さも、何時の間にか人々の記憶からかき消されるように消え失せて、寂しい寂しい冬が来る。

 

水郷柳河(四)

 日光の直射を恐れて羽蟻は飛びめぐり、掘割には水涸れて悪臭を放ち、病犬は朝鮮薊の紫の刺に後退りつつ咆え廻り、蛙は青白い腹を仰向けて死に、泥臭い鮒のあたまは苦しそうに泡を立てはじめる。七八月の炎熱はこうして平原のいたるところの街々に激しい流行病を仲介し、日ごとに夕焼の赤い反照を浴びせかけるのである。

 この時、海に最も近い沖ノ端の漁師原には男も女も半裸体のまま紅い西瓜をむさぼり、石炭酸の強い異臭の中に昼は寝ね、夜は病魔退散のまじないをとして廃れた街の中、あるいは堀の柳のかげにBANKO(縁台)を持ち出しては盛んに花火を揚げる。そうして朽ちかかった家々のランプのかげから、死に瀕したコレラ患者は恐ろしそうに布団をはいだし、ただじっと薄明りの中に色を変えてゆく五色花火のしたたりに疲れた瞳を集める。

 焼酎の不摂生に人々の胃を犯すのもこの時である。そうして雨乞いが思い思いに白粉をつけ、紅い隈どりを凝らした仮装行列の日に日に幾隊となく続いていくのもこの時である。そうは言ってもまた久留米絣をつけ新しい手籠をかかえた菱の実売りの娘の、懐かしい「菱シヤンヲウ」の呼び声を聞くのもこの時である。