水郷柳河

北原白秋・水郷柳河の現代語版

水郷柳河(三)

 とはいえ大麦の花が咲き、からの花も実となる晩春の名残惜しさは、青臭い芥子(けし)の花房や新しい蚕豆(そらまめ)の香りにいつしかとまたまぎれてゆく。

 まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取り付け始めた大きな三神丸の一部をふと学校帰りに発見した沖の端の子供の喜びは何に例えられよう。艫の方の化粧部屋は蓆(むしろ)で張られ、昔ながらの廃れかけた舟舞台には桜の造花をくまなくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものであるが、水天宮の祭日ともなれば粋な町内の若い衆が紺の半被に棹さされて、幕間には笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を変えるたびに幕を替え、日を替えるたびに歌舞伎の芸題もとり替えて、同じ水路を上下すること三日三晩、見物は皆あちらこちらの掘割から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歓を尽くして別れるものの、何処かに頽廃の趣が見えて祭の済んだあとから夏の哀れは日に日に深くなる。

 この騒ぎが静まれば柳河にまたゆかしい蛍の季節が来る。

 あの眼の光るのは

 星か、蛍か、鵜の鳥か

 蛍ならお手にとろう

 お星さまなら拝みましょう

幼い時私はよくこういう子守唄をきかされた。そうして恐ろしい夜の闇におびえながら、乳母の背中から手を出して例の首の赤い蛍を握りしめた時私はどんなに好奇の心にふるえたであろう。実際は蛍は地方の名物である。馬鈴薯の花さくころ、町の小舟はまた幾つとなく矢部川の流れを溯りはじめる。そうして甘酸っぱい燐光の息するたび、あおあおと眼に沁みる蛍籠に美しい仮寝の夢を時たまに閃かしながら、水のまにまに夜をこめて流れ下るのを習慣とするのである。

長い雨の間に果物の樹は孕み女のように重くしなだれ、ものの卵はねばねばと溜まり水のむじな藻にからみつき、蛇は木に登り、真菰は繁りに繁る。柳河の夏はこうして全ての心を重く暗く腐らせたあと、池の辺には鬼百合の赤い閃きを先だてて、焼くがごとき暑熱を注ぎかける。

水郷柳河(二)

折々の季節につれて四辺の風物も変わる。短い冬の間にも見る影もなく汚れ果てた田や畑に、刈株だけが鋤き返されたまま色もなく乾き尽し、羽に白い斑紋を持った怪しげな高麗烏のみが廃れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、そうして青い股引をつけた櫨(はじ)の実採りの男が静かに暮れてゆく卵色の梢を眺めては無言に手を動かしているほかには、展望の広い平野だけに何ら見るべき変化もなく、すべてが陰鬱な光に被(おお)われる。柳河の子供はこういう時幽(かす)かなシユブタ(鮠(はや)の一種)の腹の閃きにも話にきく生胆(ぎも)取りの青い眼つきを思い出し、海辺の黒猫はほほけ果てた白い穂の限りもなく戦いでいる枯葦原の中に、じっとうずくまったまま、過ぎゆく冬の囁きに昼もなお耳をかたむけて死ぬのであろう。

 

いずれにもまして春の季節の長いという事はまたこの地方を限りなく悲しいものに思わせる。麦がのび、見渡す限りの平野に黄色い菜の花の毛氈(もうせん)が柔らかな風に薫り始めるころ、まだ見ぬ幸を求めるために、うら若い町の娘の一群は笈(おい)に身を寠(やつ)し、哀れな巡礼の姿となって、初めて西国三十三番の札所を旅して歩く。(巡礼に出る習慣は別に宗教上の深い信仰からでもなく、単にお嫁入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であった。)その留守の間にも水車は長く閑かに廻り、町はずれの飾屋の爺は大きな鼈甲(べっこう)縁の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁いにチンカチと槌を鳴らし、片思いのブリキ職人はぢりぢりと赤い封蝋を溶かし、黄色いチャイナ服の承認は生温かい挨拶の言葉をかけて家々を覗き始める。春も半ばとなって菜の花もちりかかるころには街道のところどころに木蝋をならして干す畑が蒼白く光り、そうして狐憑きの女が他愛もなく狂い出し、野の隅には粗末な蓆(むしろ)張りの円天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車のラッパのなつかしさよ。

 

 

 

水郷柳河(一)

私の郷里柳川は水郷である。そうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ掘割の匂いには日に日に廃れていく古い封建時代の白壁が今なお懐かしい影を映す。肥後路より、あるいは久留米路より、あるいは佐賀より筑後川の流れを超えて、わが街に入り来る旅人はその周囲の大平野に分岐して、遠く近くの鮮やかな銀色の光を放っている幾多の人工的河水を眼にするであろう。そうして歩くにつれて、その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰、河骨、あるいは赤褐黄緑その他様々な色の水面に浮かぶ藻の強烈な更紗模様の中に、微かに薄紫のウォーターヒヤシンスの花を見つけるであろう。水は清らかに流れて廃市に入り、廃れはてた遊女屋の人影もない厨の下を流れ、洗濯する女の白い酒布を揺らし、水門にせき止められては、三味線の音の緩む昼過ぎには小料理屋の黒いダリヤの花に歎き、酒を造る水となり、汲水場に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病女の唇をすすぎ、気の弱いウグイスの毛に乱され、そうして夜は観音講のなつかしい提灯の火をちらつかせながら、樋を隔てて海近き沖ノ端の鹹川(しおかわ)に落ちてゆく。静かな幾多の掘割はこうして昔のまま白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を泳がせ、変化が多い少年の秘密を育む。水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。